「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」という文言があります。島左近はこの言葉通り、石田三成の優れた重臣でした。石田三成の領地が僅か四万石だった折に、50パーセント分の二万石を付与して島左近を抱き込んだという有名な話があります島氏は大和の平群(平群)谷(奈良県生駒郡平群町)を拠点として、興福寺の一乗院に配属しました。戦国自体には、同様に一乗院に配属していた筒井氏が勢力を拡大していたので、島氏はこの筒井氏の傘下に入りました。島左近も筒井順慶の家臣という立場になり、松倉右近と共に、優秀な武将となっていきました。

「筒井の右近・左近」と呼ばれるほどでした。順慶は豊臣政権の折 大和郡山城のトップとなり、大和一帯を領地にしました。

しかし1584年(天正12年)に病死 養子の定次が家督を引き継ぎましたが、次の年には伊賀の上野城に転封という運びになりました。

島左近と定次は仲が悪く、左近は筒井家を出ました。そして浪人となり、その後石田三成に用命されたのです。大阪市淀川区十三東3の木川共同墓地に存在する

島左近の墓 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては、石田三成が西軍の形式上の大将を務めました。島左近は杭瀬川(杭瀬川)の戦い(9月14日)で、東軍の有馬豊氏・中村一栄(和秀)を倒し、その力を十二分に示します。

しかし次の日の戦いの途中で、東軍の黒田長政隊の撃った鉄砲が命中し戦死したと言われています。さて、ここで以下をご覧ください。「黒田家譜」:鉄砲が命中し、馬から落ちた島左近は嫡子新吉もとうに戦死したと知り「もう終わりだ私の首を深谷(しんこく)に隠せと命令すれば、部下は言いつけを守る(意訳)」との遺言を残した。これは、そのままなので良いとしましょう。問題は以下の2つです。

「関ヶ原軍記大成」:「島左近は、黒田長政の鑓頭の菅六之助の鉄砲に撃たれて死んだというのが事実だ(意訳)」 つまり、黒田長政軍が島左近を殺したとしています。

「戸川記」:「加藤嘉明(よしあき)の先鋒と争い、死んだ対象は島左近である」 とあり、戸川逵安(みちやす)の軍隊が島左近を殺したとしています。2つの書物で見解が分かれているのですね。さて戸川家は江戸時代に、備中の都宇郡(岡山市等)などの領地を所有する旗本という立場で、幕末に至りました。そして、戸川家には左近が被っていたと見られている五十二間の兜が渡ってきました。その兜は久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)に納められ、今は東照宮の所有するところとなっています。総覆輪(そうふくりん)の煌びやかな兜です。島左近はそれでも、黒田長政勢に殺されたとする見解が主流のようです。

しかし、戸川家では戸川家が殺したとしていて、証拠の品物まで残っているのだとか。しかし、関ヶ原の戦いのあとの首実検に島左近の首は存在せず、島左近を殺したと正式に認められているわけではありません。そして、京都市上京区の立本寺(りゅうほんじ)には島左近の墓が存在します。

墓石の裏には「寛永九壬申六月二十六日没」と書かれていて、目立つ表側には「妙法院殿嶋左近源友之」と書かれています

そして台石正面には「土葬」と記されています。立本寺は日蓮宗の総本山であり、立本寺塔頭の教本院には同一の没年が掛かれた位牌・過去帳もあるそうです。それら曰く、島左近は関ヶ原の戦いで死んだのではなく、生き延びて1632年(寛永9年)に死んだとの事 現に、関ヶ原の戦いの後も、左近が生きていたとしている史料はがかなり存在します。特に「石田軍記」は、嫡子新吉が討死して、それを知っていてなお、西国に逃亡した島左近を「左近は愛する息子を助けようともせず、知らん顔で逃げた(意訳)」と批判しています。

「1632年(寛永9年)死亡論」も、また根強い異説なのですが、大阪市淀川区の木川町の共同墓地にも左近の墓が存在します

「左近が娘と妻を引き連れてこの土地で暮らし、娘は大阪天満宮社家(今の宮司家)の寺井家に嫁に出た」と、木川町周辺では言われているようです。「寺井家系図」というものが存在しますが、その中には五大種定の妻に関して「大阪浪人島左近道斎の娘」と記されています。また大阪市北区の南浜墓地に存在する彼女の墓石には「島氏」と記載されています